一葉松(ひとはまつ)と傾城の墓~伝承

2020/09/09

『一葉松(ひとはまつ)と傾城の墓』は東福寺(西恋ケ窪1-39)の境内にあり、「国分寺百景」にも選定されています。これには以下の伝承~畠山重忠と夙妻太夫(あさづまだゆう)の悲恋物語~があります。

畠山重忠は武蔵武士団の棟梁(鎌倉幕府の有力御家人)で、古来知勇兼備の名将として知られています。一方夙妻太夫は恋ヶ窪(鎌倉街道の宿場)の遊女で、大変美しい人でした。 重忠は本拠地が男衾群(おぶすまぐん)畠山荘(現埼玉県深谷市)で、鎌倉との往復の際に必ずこの夙妻を訪ねました。二人の間には遊女と客という関係を越えた深い愛情が生まれました。

そうした折り、重忠は平家追討のため、西国に出陣する命令を受け、一人残された夙妻は泣いて暮らす日々を送りました。夙妻に熱をあげる一人の男が、重忠への思いをあきらめさせるために重忠が西国で討死したとうそをつきました。夙妻は嘆き悲しみ、姿見の池に身を投じました。

村人は夙妻を哀れに思い墓のわきに一本の松を植えました。その松は西国にいる重忠を恋うるように西へ傾いて伸びていったといわれます。また、その葉は不思議と一葉で、切ない女心を表していると村人は考え、「一葉松」(ひとはまつ)と呼ぶようになりました。

その後、無事に戻った重忠は、亡き夙妻のために一堂を建立し、無量山道成寺と名付けました。道成寺は新田義貞の鎌倉攻めの際の兵火で焼け、一葉松も1981年(昭和56年)に枯れたため切り倒されましたが、東福寺境内には、夙妻太夫の傾城墓碑と傾城墓由来碑が建てられ、一葉松も実生の松が植え継がれています。

※参考資料:「ふるさと国分寺のあゆみ」(国分寺市教育委員会 発行)

*傾城(けいせい)、傾国とも言う;元来は絶世の美女のこと。日本では遊女の別称。
*国分寺百景:「市民が誇りと愛着のもてる景観」を国分寺市まちづくりセンター(まちセン)が選定したものです。なお、まちセンは、NPOまちづくりサポート国分寺(まちサポ)が市との協働事業として運営していました。
*畠山重忠(1164~1205):秩父平氏の一族。源頼朝が安房国で挙兵後臣従し、治承・寿永の乱などで活躍しましたが、頼朝の没後北条氏に謀殺されました。武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で後世「坂東武者の鑑」と称されました。また、「源平盛衰記」では、鵯越(ひよどりごえ)の逆落としでは,大力の重忠は馬を背負って坂を駆け下ったとされています。